私は,世の中の本質を考えたとき,「時間」と「意識」という二つのものが思い浮かぶ.
ただし,この二つは対等な存在ではない.時間は宇宙の根本的な法則であり,意識よりも上位の階層に存在していると考えている.時間が存在し,その中に人間の生活があり,さらにその生活の中に意識が存在している.そして,意識の下には経験や感情,思考といったものがある.
私にとって,時間は意識のようにその存在自体を疑う対象ではない.人間が存在する以前から時間はあり,人間がいなくなったとしても時間は存在し続けると思っている.もちろん,時間というものの性質がすべて解明されているとは考えていない.しかし,少なくとも意識について考えるとき,時間は宇宙に存在する法則として扱ってよいと思っている.
一方で,意識については考察の余地がある.
私は,意識とは何かを考えるとき,どうしても時間というものを切り離すことができない.なぜなら,私たちは時間の中でさまざまな経験をし,感情や考え方を変化させていくにもかかわらず,それらを経験している「私」という主体は変わっていないように思えるからだ.
例えば,子供のころに見た映画を,大人になってもう一度見たとする.
子供のころはつまらないと感じていた映画が,大人になってから見ると面白いと感じられることがある.これは,成長する過程で知識や経験を積み重ね,物事に対する感じ方や価値観が変化したからだろう.
しかし,ここで私は一つの疑問を感じる.
映画をつまらないと感じた子供のころの「私」と,面白いと感じた現在の「私」は,本当に変化しているのだろうか.
確かに,経験や感情,価値観は変化している.しかし,それらを経験している主体としての「私」は,何も変わっていないように思える.
私は,意識と経験や感情を同じものとして扱うべきではないと考えている.
経験によって何を感じるのか,どのような感情を抱くのかは変化する.しかし,それらを経験する主体としての意識は,別の階層に存在しているのではないだろうか.
つまり,私が考える意識の不変性とは,経験や感情が変化しないということではなく,それらを経験している「私」という主体が変わらないということだ.
ただし,ここには難しい問題がある.
人間の身体は時間とともに変化している.脳の神経回路も変化している以上,意識を成立させている物理的な構造も変化しているはずだ.
私は,意識が人体という物理的な制約から独立して存在しているとは考えていない.意識を成立させるためには,何らかの物理的な構造が必要なのだと思う.
それでもなお,私という意識は変わっていないと感じる.
ここで,意識そのものが本当に変化していないのか,それとも意識は変化しているが,その変化に私たちは気づくことができないのか,という疑問が生まれる.
私は後者の可能性について考えるうちに,「今」と「今」を比較することはできないのではないかと思うようになった.
例えば,現在の私が子供のころの自分を思い出したとする.しかし,そのとき私が経験しているのは,子供のころの意識そのものではない.現在の意識によって,子供のころの記憶を思い出しているにすぎない.
過去の「私」と現在の「私」を同時に取り出して,直接比較することはできない.
過去を振り返るときも,未来を想像するときも,それを経験しているのは常に現在の「私」である.
つまり,私たちはどの瞬間においても,その瞬間の「私」という立場からしか世界を経験できないのではないだろうか.
そう考えると,意識は時間とともに変化しているのかもしれない.しかし,その変化を意識自身が直接認識することはできないのかもしれない.
それでは,私が感じている意識の不変性は,単なる錯覚なのだろうか.
私は,そうとも言い切れないと思っている.
子供のころの私と現在の私は,同じ私でなければならないというわけではない.ただ,時間が経過し,さまざまなものが変化したにもかかわらず,振り返ってみると同じ私であったと感じる.
この感覚は,記憶や身体が連続しているからという理由だけでは説明できないように思う.
私は,意識を成立させる物理的な構造と,実際に経験する主体としての「私」を,区別して考える必要があるのではないかと思っている.
そこで,意識を一つのスイッチとして考えてみた.
意識を成立させる物理的な構造が存在し,何らかの条件によってスイッチがオンになることで,主観的な経験が生まれるという仮説だ.
この考え方では,スイッチがオフになっているとき,主観的な経験は発生していない.しかし,意識を成立させる構造そのものが消滅したわけではない.
そして,再びスイッチがオンになれば,主観的な経験が始まる.
もちろん,これは意識の仕組みを説明するための仮説であり,実際に人間の脳にそのようなスイッチが存在すると主張しているわけではない.
しかし,このように考えることで,意識の存在と,意識による経験を区別することができる.
例えば,私たちは普段,何かを経験していても,その経験をしている「私」という主体そのものについては意識していない.
映画を見ているとき,私たちは物語に集中しているのであって,映画を見ている「私」の存在を絶えず確認しているわけではない.それでも,経験している主体が存在していることを疑う必要はない.
ただし,自分という主体を自覚していないことと,主観的な経験そのものが存在しないことは異なる.
この違いを考えると,意識とは単に経験や感情の集まりではなく,それらを成立させる仕組みと深く関係したものなのではないかと思う.
そして,この考えはさらに別の疑問を生む.
私が感じている「私」という意識は,他人が感じている「私」という意識と,何が違うのだろうか.
他人にも意識が存在していると考えるのは自然なことだ.誰もがそれぞれの経験を持ち,それぞれの立場から世界を見ているはずだ.
しかし,私は他人の意識になることができない.
他人の脳の状態を観測することはできても,その人が感じている主観を,その人自身として経験することはできない.
同様に,他人が私の意識になることもできない.
仮に二人の人間が全く同じ経験をして,同じ感情を抱いていたとしても,それぞれの経験をしている主体は別々なのだと思う.
私という主体は,他の誰かという主体とは異なる唯一無二の存在であるように感じる.
ここでも,経験の内容と,それを経験する主体を区別する必要があるのではないだろうか.
しかし,その主体の違いを客観的に確認する方法は,少なくとも私には思いつかない.
意識の問題が難しいのは,意識が観測する主体であると同時に,考察しようとしている対象でもあるからだと思う.
私は自分の意識を経験することはできる.しかし,自分の意識を外側から直接観測することはできない.反対に,他人の脳活動を外側から観測することはできても,その人の主観そのものを経験することはできない.
このような性質を持つ意識について,私たちはどこまで理解することができるのだろうか.
もしかすると,意識の同一性や唯一無二性については,原理的に解決できない問題が存在しているのかもしれない.
しかし,私はこのことを悲観的には捉えていない.
そもそも,私が意識について考えることに面白さを感じるのは,明確な答えが存在しているからではない.
直接観測することができず,正しいかどうかを確かめることさえ難しい問題について,どのように考えれば理解に近づけるのか.その過程にこそ面白さがあると思っている.
意識の不変性についても同じだ.
私は,経験する主体としての「私」は変わらないと考えている.しかし,その考えが客観的に正しいと証明できたわけではない.
だからこそ,意識が変化している可能性も考えるし,意識の不変性が私たちの認識の仕組みによって生じている可能性も考える.
考察を重ねることで,最初の考えが修正されることもあるだろう.それでも,何が分かっていて,何が分かっていないのかを少しずつ明確にしていくことには意味があると思う.
そして,私は意識の問題がすべて解決不可能であるとも考えていない.
むしろ,将来,人間の意識を発生させている物理的な構造は解明されると考えている.
脳のどのような構造や活動によって意識が成立するのか.どのような条件で主観的な経験が始まり,どのような条件で失われるのか.現在は十分に理解されていないこれらの仕組みも,科学の発展によって明らかになるのではないだろうか.
ただし,意識を発生させる物理的な構造が解明されたとしても,意識に関するすべての疑問が解決するとは限らない.
なぜ私は他の誰でもなく,この私なのか.子供のころの私と現在の私は,本当に同じ主体なのか.そもそも,物理的な構造から主観的な経験が生まれるということを,どこまで説明できるのか.
これらの疑問が,物理的な構造の解明によって同時に解決されるのか,それとも別の問題として残り続けるのかは分からない.
私は,意識というものが物理的な構造に依存しながらも,物質の振る舞いを記述するだけでは捉えきれない異なる階層の問題を含んでいるように感じている.
しかし,それが意識は物理世界とは独立した存在だという意味なのか,それとも私たちの理解や観測の方法に限界があるという意味なのかは,まだ判断できない.
だからこそ,これからも考察する余地がある.
時間という宇宙の法則の中で,私たちの身体も,経験も,感情も変化し続けている.その一方で,私は常に「今」という瞬間からしか世界を経験できない.
そして,変化し続ける世界の中で,私は結果的にずっと同じ「私」であったと感じている.
この感覚の正体が何なのか,今の私には分からない.
ただ,いつか意識を成立させる物理的な仕組みが明らかになったとき,私たちは「私」という存在について,今とは全く違った理解を持つことになるのかもしれない.
そのとき,それでもなお残る疑問があるのなら,私はその疑問についても考えてみたい.
