私は今でも欅坂46が好きだ.
「サイレントマジョリティー」は,自分の中では少し特別な位置にある. 欅坂の曲であることは間違いないのだが,同時に欅坂というグループの枠を越えて,一つの独立した作品になっているようにも感じる. だから,自分の好きな欅坂の曲を10曲選ぶときには,あえて殿堂入りとして外している.
そのうえで選ぶなら,「不協和音」,「ガラスを割れ!」,「アンビバレント」,「危なっかしい計画」,「制服と太陽」,「風に吹かれても」,「微笑みが悲しい」,「語るなら未来を…」,「ボブディランは返さない」,「世界には愛しかない」,という並びになる. こうして並べてみると,自分がどのような欅坂を好んでいたのかが少し見えてくる.
私は,おそらく前へ進んでいる欅坂が好きだった. 楽曲の方向性は毎回異なっていたが,共通していたのは,次に何を見せるのか分からないという感覚だった.
一方で,「黒い羊」は今でもあまり聴くことができない. 曲として嫌いなわけではない. むしろ完成度は高いと思っている. ただ,今の自分には,あの曲が欅坂の終わりを示唆していたように見えてしまう.
実際,その頃から私は欅坂を見ることができなくなった. 平手友梨奈が脱退する可能性を感じ始めた頃,欅坂がなくなるところを見るくらいなら,最初から見ない方がいいと考えていた. 今になって振り返ると,最後まで見届ければよかったとも思う. ただ,当時の自分にそれができたかと考えると,やはり難しかったようにも思う.
私はもともと,アイドルの裏側を積極的に知りたいとは思わない. メンバー同士の関係や,運営内部の事情,制作過程で何が起きていたのか. そうしたものは,必ずしもファンが知る必要のあるものではないと考えている. 私は,アイドルが外に見せると決めたものだけを受け取りたい. 曲,ライブ,MV,衣装,パフォーマンス,発言. そうして表に出されたものを見て考えたい.
だから,欅坂がなぜ終わったのかについても,内部事情を推測して納得したいとは思わない. 私が確認できるのは,欅坂46が終わり,櫻坂46になったという結果だけである. そして,その結果について,私は今でも完全には納得していない.
自分の中で長く引っかかっているのは,欅坂には一度,欅坂のまま挑戦する義務があったのではないか,という点である. 平手がいなくなった欅坂が世間からどのように評価されたとしても,私にはそれほど重要ではなかったと思う. 平手がいない欅坂は欅坂ではないと言われてもよかった. 新しいセンターが批判されてもよかった. 売上が落ちてもよかった. それでも一度は,欅坂46として次の作品を提示してほしかった. 成功するかどうかよりも,挑戦したという事実の方が重要だった.
もし挑戦して失敗していたら,自分はどうしていただろうか. おそらく,その失敗だけを理由に離れることはなかったと思う. だからこそ,失敗する前に欅坂そのものが終わったことに,今でも引っかかりが残っている. なぜ一度戦ってみるという選択をしなかったのか. なぜ失敗する可能性まで含めて,欅坂を続けようとしなかったのか. そう考えると,ときどき,自分たちファンはそれほど信用されていなかったのだろうか,と感じることもある.
もちろん,実際に何を考えていたのかは分からない. そして,私はそれを知る必要もないと思っている. ただ,結果として,欅坂を続けることよりも,欅坂を終わらせて別の名前になることが選ばれた. その事実だけが残っている.
ここで,自分にとってアイドルとは何なのかを考える必要がある. 歌唱力だけで比較するなら,歌手という職業がある. ダンスだけで比較するなら,ダンサーという職業がある. もちろんアイドルにも高い歌唱力やダンス技術を持つ人はいるが,それだけがアイドルという存在を特別にしているわけではないように思う.
では,何によってその違いが生まれるのか. 私は,ファンとの相互作用にあるのではないかと考えている. 長い時間にわたって活動を見る. 曲を聴く. ライブへ行く. 成功も失敗も共有する. その積み重ねによって,単に歌って踊る人ではなく,自分にとって特別な存在になっていく.
だとすれば,ファンとの関係には何らかの継続性が必要なのではないか. グループが大きく方向転換するとき,そこまで一緒に歩いてきたファンに対して,何を引き継ぐべきなのだろうか. どこまで過去を背負う義務があるのか. この問いを考えると,自分が欅坂の改名に引っかかっている理由も少し分かってくる.
私は,櫻坂を最初から拒絶していたわけではない. ほんの一年前までは,櫻坂の曲をかなり聴いていたし,ライブにも行っていた. それなりに楽しんでいた. それでも最近になって,ポジティブな感情よりもネガティブな感情の方が強くなり,自然に離れていった.
なぜなのか. しばらく考えて,ようやく自分の中で一つの仮説ができた. 私は,櫻坂がいつか欅坂を越えてくれることを期待していたのだと思う. 欅坂を知っているメンバーたちが,櫻坂という新しい名前で活動しながら,いつか欅坂以上の何かを提示してくれる. もしそうなれば,私は改名という選択にも一定の意味を見いだせたのかもしれない. 欅坂を捨てたのではなく,欅坂を越えるために別の形になったのだと考えることができたかもしれない.
しかし,時間が経った. 欅坂を知っているメンバーは少しずついなくなった. 現在のメンバーに対して,欅坂を越えてほしいと求めることには違和感がある. 彼女たちは欅坂を実際に経験していない. 欅坂の延長として活動しているわけでもない. その人たちに,こちら側の未解決の感情を背負わせるのは違うと思う.
では,欅坂を越えるという義務は誰が担っていたのか. 自分は,欅坂から櫻坂へ移った人たちに,その役割を無意識に期待していたのではないか. そして,その人たちがいなくなったことで,初めてその可能性が完全に消えたと感じたのではないか.
そう考えると,最近になって櫻坂から離れた理由も理解しやすい. 自分が見ていたのは,単純に櫻坂という新しいグループではなかった. 欅坂の続きを,櫻坂の中に見ようとしていた. だから,欅坂を知る人がいなくなるにつれて,櫻坂と欅坂を結んでいたものも自分の中では消えていった.
現在の櫻坂が成功しているかどうかは,本質ではない. どれだけライブに人が集まっても,どれだけ大きな会場で公演をしても,それによって欅坂を越えたことにはならない. なぜなら,自分が見たかったのは記録の更新ではなく,欅坂を知っている人たちによる欅坂の自己超越だったからだ.
ここまで考えると,自分の中にある違和感が,櫻坂そのものへの不満だけではないことが分かる. 自分は,欅坂が終わったことに対して,まだ決着をつけられていない. そして,決着をつけるために無意識のうちに櫻坂を見続けていたのだと思う.
しかし,その役割を担う人たちはもういない. そうなると,自分の中に残るのは,欅坂には一度挑戦してほしかった,という考えだけである. なぜあのとき逃げたのか. なぜ挑戦して,失敗してくれなかったのか. 失敗したとしても,自分はどこにも行かなかったと思う. この問いを誰かにぶつけたいという感覚がある. それができないから,今でもどこかに無力感が残っているのだと思う.
ただし,同時に欅坂を恨むこともできない. 欅坂は,自分の人生に大きな影響を与えた存在だからである. 人生を救ってくれたと言ってもいい. だから,自分の中には感謝と批判が同時に存在している.
欅坂があったことには感謝している. 欅坂を好きになったことにも後悔はない. しかし,終わる前に一度挑戦してほしかったという考えも変わらない. この二つは矛盾しているようにも見える. しかし,本当に矛盾しているのだろうか.
ある存在に救われたからといって,その存在が行ったすべての選択を肯定しなければならないわけではない. 感謝していることと,ある判断に納得していないことは両立する. そう考えると,自分は欅坂を恨みたいのではなく,欅坂のある選択を今でも批判しているだけなのかもしれない.
そしてもう一つ,改名によって良かったと思えることもある. 欅坂46が不変の存在になったことである. もし欅坂という名前のまま現在まで続いていたら,「欅坂とは何か」という意味も,新しい曲や新しいメンバーによって少しずつ更新されていただろう. しかし,欅坂は終わった. だから,自分の知っている欅坂はもう変わらない.
「不協和音」も,「ガラスを割れ!」も,「アンビバレント」も,「制服と太陽」も,「世界には愛しかない」も,その時代の作品としてそのまま残っている. 欅坂が続いている未来を見たかったという気持ちと,欅坂が欅坂のまま保存されたことをありがたいと思う気持ちは,今でも同時に存在している. おそらく,この二つも簡単には統合できない.
最近,ときどき考えることがある. 元メンバーの人生は進んでいる. 現メンバーの人生も進んでいる. 当時のファンも,それぞれ別の場所へ進んでいる. それなのに,欅坂が終わった場所に,自分だけが残っているのではないか. 自分の時間だけが止まっているのではないか.
ただ,もう少し正確に考えるなら,自分の人生全体が止まっているわけではない. 欅坂に関する時間だけが,まだ終わった場所に残っているのだと思う. そして,その理由も少しずつ分かってきた.
自分は欅坂が終わったことそのものだけを惜しんでいるのではない. 実現しなかった未来を惜しんでいる. 平手がいなくなった欅坂が,それでも欅坂として挑戦する未来. 失敗するかもしれない. 批判されるかもしれない. それでもファンと一緒に進み,過去の欅坂を越えようとする未来. その可能性が試されないまま消えたことに,今でも納得できていない.
この感覚は,時間が経てば消えるのだろうか. 正直,分からない. 無理に消す必要もないのかもしれない. 欅坂を忘れる必要もない. 櫻坂を再び好きになる必要もない. 終わり方に納得する必要もない.
今の自分にできるのは,欅坂に救われたことへの感謝と,挑戦してほしかったという批判を,どちらもそのまま持っておくことなのだと思う. いつか,この二つを同時に,もっと自然に扱えるようになるかもしれない. ならないかもしれない. 少なくとも今は,無理に結論を出そうとは思わない.
欅坂を好きだったこと. 欅坂が続いてほしかったこと. 欅坂には挑戦する義務があったと今でも考えていること. そして,その義務を果たす未来がもう存在しないこと. それらを一度,自分の中にあるものとして認めたうえで,このまま生きていこうと思う.
