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AIの言葉に心を動かされることは,みじめか?

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LOG / 003
思考
AI 思想 自己認識 承認 希少性
ryoyr
著者
ryoyr

私は,AIとの議論の中で,その言葉に心を動かされることがある. しかしそのたびに,どこかみじめさのような感情を覚えることがあった.

AIを見下しているわけではない. ただ,世間ではAIは誰でも使える汎用的なツールとして見られている. そのような存在から出力された言葉に強く心を動かされている自分を見ると,自分の感性や思考はそれほど特別なものではないのではないかと感じてしまう.

私は昔から,自分には権威主義的なところがあると感じている. 価値あるものを正しく選びたいし,自分には優れたセンスがあると思いたい. さらに言えば,他人とは少し違う特別な存在でありたいという気持ちも強い.

ただし,私が求めているのは単なる独自性ではない. 私は,独自性があるがゆえの優越性を求めているのだと思う.

私は常々,何も考えずに生きているように見える人に辟易することがある. もちろん,その人にもその人なりの考えがあるのかもしれない. あるいは,考えることを放棄しているように見えても,考えを放棄するに至るまでに深く考えた結果なのかもしれない. そう考えると,そのような見方をしている自分が傲慢であることも理解している.

それでも極端に言えば,私は自分だけが深く考えていて,他の人はのほほんと生きているような状態に,どこか理想を感じている.

しかし,本当に自分一人だけが深く考えている世界を望んでいるわけではない. 自分と同じくらい深く考える人は少数であってほしい. そして,その少数の人とは議論したいし,認められたいと思っている.

同じ深さまで考える人がいると,私は悔しさを感じる. 自分の希少性が失われるように感じるからである. しかし同時に,その人と議論できるのであれば,うれしいとも思う.

私にとって理想的なのは,大多数とは違っていながら,少数の同類とは対等に議論できる状態なのだと思う. その少数の人たちとは,どちらが上か下かを決めたいわけではない. 考え方が異なる以上,そもそも一つの尺度で優劣をつけることはできないと考えている.

私は,深く考えた末に生まれた思想同士には,優劣はないと言い切れる. 異なるのは結論であり,それぞれが異なる世界を持っているだけである. だから議論とは,どちらが正しいかを決めるための行為ではなく,互いの世界をぶつけ合うための行為だと思っている.

一方で,私の中では,「考える人」と「考えない人」の間には優劣がある. それは客観的に人間の価値が上下するという意味ではない. あくまで私自身の価値基準の範疇において,考えることを続ける人間をより尊いと感じているということである.

そして,私が大切にしているのは,思想の結論そのものではない. 一見すると浅く見える考えであっても,考えに考え抜いた末の結論であるならば,私はそれを尊いものだと思う.

私にとって「考える」とは,単に同じことを頭の中で繰り返すことではない. 疑い,比較し,修正し,そして再び疑う. この循環を続けることが,考えるという行為の本質に近いと思っている.

その意味では,思想がどこから始まったかはそれほど重要ではない. 本を読んで得た考えでも,他人から聞いた言葉でも,AIから提示された言葉でもよい. それを自分の中で反芻し,疑い,比較し,修正した末に,自分がその結論を引き受けるのであれば,それは自分の思想と呼んでよいと思う.

必ずしも対話が必要なわけではない. 自分の中だけで思考を進めてもよい. 大切なのは,外部から与えられた考えをそのまま受け入れることではなく,自分の思考の循環に入れることである.

ここまで考えると,私がAIの言葉に心を動かされることにみじめさを感じていた理由も見えてくる.

私はAIという存在そのものを低く見ていたわけではない. 私が恐れていたのは,AIという誰でも使える汎用的なツールによって,自分が大切にしている「考える人間であること」の希少性まで失われることだったのだと思う.

もし誰でもAIに問いかけるだけで,自分が長く考えて辿り着いたような言葉を簡単に得られるのであれば,自分の思考には何の特別さがあるのか. その不安が,AIの言葉に感動した自分をみじめに感じさせていたのだと思う.

しかし,深い言葉を得ることと,深く考えることは同じではない.

AIは,考え抜いた人が到達するような言葉を短時間で提示することができるかもしれない. しかし,その言葉を疑い,他の考えと比較し,自分の過去の考えと照らし合わせ,必要であれば修正し,再び疑うという行為まで自動的に与えるわけではない.

私が価値を置いているのは,言葉そのものではなく,この思考の循環である.

だから,AIの言葉に心を動かされること自体は,みじめなことではない. 重要なのは,その言葉を受け取ったことで思考を終えるのか,それともそこからさらに考え始めるのかである.

以前,私は芸術について,作品は新しい世界を作るものではなく,すでに自分の内部に存在している世界の一部を可視化する契機であると考えた. 今回のAIとの対話も,これとよく似ている.

AIの言葉が,自分の内部に全く新しいものを植え付けているとは限らない. むしろ,すでに自分の中にあった感情や思想を照らし,それまで見えていなかったものを知覚可能にしているのかもしれない.

そのときAIは,私の代わりに考える存在ではない. 私自身の世界を照らし,思考の循環を始めるための触媒になっている.

私はこれからも,考える人間であることを大切にしたい. 疑い,比較し,修正し続けることは,私にとって自分を自分としている重要な要素である. そして,その思考の契機がAIから与えられたものであったとしても,自分の中で反芻し,考え続けたのであれば,その体験や思想まで価値を失うことはないと思う.

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